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    沖縄レポート/悲しい「記念日」増やしたくない/戦後75年を振り返る

     沖縄にはいくつもの「記念日」がある。5月15日「日本復帰の日」、6月23日「沖縄戦慰霊の日」などは全国的にも知られる。基地問題に苦しみ悩まされ続ける沖縄では、悲しいことに、新しい「記念日」が増え続けている。戦後75年でもあったこの1年は、何が変わり、何が変わっていないのかを考え続ける日々でもあった。

     県民挙げての反基地運動の起点と位置付けられる1995年から25周年の節目だった。小学生の女児が米海兵隊3人に暴行を受けた少女暴行事件の発生が9月4日。そして事件に抗議する復帰後最大8万5千人が結集した県民大会が10月21日。

     

    ●慌ただしい12月

     

     12月はなお慌ただしく「記念日」に追われた。12月13日は、名護市安部の海岸にオスプレイが墜落して4年、宜野湾市の普天間第二小のグラウンドに米軍大型ヘリの窓枠が落下してから3年の日だった。窓落下の6日前には宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根に米軍ヘリの部品が落下するという事件も起きている。調査を続けてきた沖縄県警は18日、米軍だと特定できなかったと発表。米軍以外にあり得ないが、米軍が否定すると行き詰まってしまう不条理だ。子どもたちを危険にさらしたくないという思いも後押しになり、原告が4千人を超える第3次普天間飛行場爆音訴訟が25日に提起される。

     12月14日は名護市辺野古新基地建設で土砂投入が開始されて2年の日であった。軟弱地盤のために防衛省は設計変更申請を出している。年明けに玉城デニー沖縄県知事は不承認を決定する。

     

    ●民衆蜂起のコザ騒動

     

     そして12月20日は、米軍車両が80台以上焼き打ちにされた「コザ騒動」から50年だった。交通死亡事故を起こした米兵を沖縄側が裁くことができず無罪が相次いでいたことや、ひそかに沖縄に持ち込まれていた毒ガスが漏れる事件などで、沖縄の人々の怒りは沸点に達していた。そこへクリスマス前でにぎわうコザ(現沖縄市)の繁華街で米軍車両による交通事故が起きた。人々は米軍車両を選んで道路の中央部に移動し、ひっくり返して火をつけた。略奪もなく、死者も出ず、周辺の商店や住宅への被害はなかった。計画性もなく首謀者も存在しないのに秩序があった。一夜だけの「民衆蜂起」だった。

     各メディアは新たな事実、証言を掘り起こし、写真展やシンポジウムが次々に開催され、50年前の事件の意味と現在とを考え続けた。全国メディアは「コザ暴動」と報じるが、沖縄では「コザ騒動」とされてきた。「暴動」は米軍政や権力側の言い方であり、秩序があった抗議行動を「暴動」と呼ぶべきではないという立場からだ。

     悲しい「記念日」がこれ以上増えることなく、一つ一つ解決していくことを願って、2021年を希望の年にしたいものである。(ジャーナリスト 米倉外昭)