日本で最初にメーデー集会が開かれてから、今年はちょうど100年。ところが、開催回数は91回。この食い違いはどうしてでしょうか。実は、戦前の戦時体制の強まりが色濃く反映しているのです。
日本の第1回メーデー集会は1920年でした。日曜日だった5月2日、東京の上野公園に約1万人が集まり「労働日大演説会」を開催。失業防止と治安警察法17条撤廃、最低賃金法制定を求めました。
労働運動や政治運動への弾圧が珍しくない中での開催でしたが、決定的な事件が起きます。36年の「二・二六事件」です。青年将校の一部が軍政府樹立などを要求して政治家らを襲撃、殺害に及ぶというクーデター未遂事件。翌27日、東京に戒厳令が公布されて反乱軍は鎮圧されました。
戒厳令は7月まで続き、政治的屋外活動は禁止に。メーデー集会の開催も許可されませんでした。
組合は抗議の声を上げ、中には茶話会やピクニック、懇談会などの名で集会を開いたところ(東京市電労組)もありました。
●戦時体制強まる中で
翌37年には戒厳令は解除されていたものの、ナチスドイツとの防共協定(36年)や日中全面戦争化(37年)など、戦時体制が強まる中で労働組合は解散に追い込まれ、大日本産業報国会(40年)に統合されていきます。メーデーは戦後の46年まで開催することができませんでした。
この間の10回分がメーデー空白期間。戦時体制の強まりと組合弾圧が、今年100周年を迎えながら第91回という食い違いが生じている原因でした。戦争に向かう時代の流れが強まれば、働く者が声を上げることさえ困難になります。メーデーの歴史はそのことを教えています。
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