「日の丸の旗より小ちぇべ。こだなおぼこば……」(日の丸の旗より小さいじゃないか。こんな子どもを……)。
今年88歳を迎える私の母さと子は、4年前に88歳で亡くなった夫・正志の少年時代の写真を見ると、今でも涙ぐむ。「むつこい(かわいそう)……。戦争は絶対駄目だ」。写真の父に、誓うかのように一人ごちる。
セピア色の父の写真は、1940年に満蒙開拓青少年義勇軍に志願、入隊前に撮られたものだ。高等小学校を卒業、14歳ではあるが背は150センチにも満たず、顔つき体つきはあまりに幼い。手にした寄せ書きの日の丸は、父をすっぽり包むほど。そして、足にゲートルが巻かれているが、履いているのは軍靴ではなく、地下足袋だ。
●「お国の役に立て」
満蒙開拓には、1932年から終戦直前の45年8月まで、国策として全国から約27万人が送り込まれた。長野県の約3万8千人が最多で、私のふるさと山形県は、2番目の約1万7千人だ。「満蒙開拓団青少年義勇軍」は、開拓後期の募集形態で10代の青少年を組織した。山形から約4千人が渡り、父はその中の一人だった。青少年義勇軍は、停滞していた開拓団のてこ入れに企図されたという。世界でもまれな、青少年による〃植民の地〃への集団武装入植。その実態は、開拓とはかけ離れていたという。
「20町歩(約20万平方メートル)の自作農」の募集の文句に、父は引かれた。小作や日雇いで生計を立てていた実家の8人兄弟の次男として生まれた。十分に食べることもままならない生活の中、大陸に夢を求めた。教師も「お国の役に立つ。白米も腹いっぱい食える」と甘く誘った。
●侵略の現実を知る
父は軍事や農業の訓練を受け、43年10月に現在の黒竜江省北安市に「第3次天ケ原開拓団」として入植した。ソ連国境からわずか170キロの原野が開拓の地。父は「オオカミが鳴く原野。日ソ開戦の際には最前線になる捨て石だと理解した」と話していた。大規模農業経営者の夢はあっという間に色あせた。
だが、日本に帰ることもできない。45年8月のソ連参戦で夢はついえた。「日本帝国主義は敗北し、満州国は崩壊した」。それまで、友好的だった現地の住民たちが叫んだ。その言葉に、自分たちがどう見られていたかを思い知る。「他国に来て、自分の国のように振る舞い、現地の人を見下していた」
●贖罪の戦後人生
日本の振る舞いへの反省を胸に父は中国を生き延びた。58年4月に舞鶴に帰還するまで、中国人集落で小作農として働いたり、八路軍(中国共産党軍)の後方支援で石炭を掘ったりした。炭鉱では落盤事故に巻き込まれ大けがを負った。それでも働いた。新生中国に少しでも役立ちたいとの思いもあったのだろう。父は「自分らは結果的に侵略に加担した。けれど、新しい中国を作る手助けも懸命にやったんだ」と語っていた。戦後10年以上中国に残り、身を粉にして働いた。体を張った贖罪(しょくざい)だが、帰国した父に世間は「(赤化された)中共帰り」のレッテルを貼り付けた。
そんな視線にさらされ、父は帰国後を生きた。そして、生涯、中国の人々に寄り添った。中国残留孤児が帰国すれば会いに行き、山形県内の中国人の強制労働の歴史を掘り起こし、見舞金を届けた。天安門事件は涙ながらに「あってはならない」と中国政府をなじった。第二のふるさと以上の思いがあった。
酒は強くない父だが、たまに酔うと、中国語で歌を歌った。恋の歌か革命の歌か望郷の歌か……。意味を聞かなかったことを今でも後悔している。国策に翻弄(ほんろう)され続けた父は、何を歌っていたのか……。安倍首相が憲法改正に突き進む2018年の夏、あらためて父を思った。
〈写真〉親類や同級生が寄せ書きした日の丸を手に義勇軍入隊の記念写真に収まる父、東海林正志(当時14歳)
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