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    〈被爆者として言い残したいこと〉上/「あの日」は地獄だった/被団協調査に706人が回答

     日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)はこのほど、「被爆者として言い残したいこと」の調査結果を発表した。政府に対しては「憲法9条の厳守」が挙げられ、日本が戦争に加わることへの強い懸念が示されている。地獄のようだった「あの日」の出来事を含め、自由記入欄に記された被爆者の思いを紹介する(年齢は被爆当時)。

     調査は2015年の夏に実施し、706人が回答した。約4割が9歳以下で被爆。平均年齢は80歳を超えている。

     

    ●これが「人間」の死か

     

     ・人間として死ぬことも許さなかった原爆。焼け爛(ただ)れた皮膚、肉が破れ、崩れたところに蛆(うじ)がはいまわる、その様子をどうすることもできなく、ただ蛆を取り、体を拭きとり、そして亡くなっていった人。今思えば、亡くなった人も、それをどうすることもできなく、見送った私も、地獄でした。二度とあってはならない人間の死。(広島、直爆3・5キロ、女、7歳)

     ・被爆者の中には最早(もはや)声すら出すことのできない重病人や、体全体が焼けただれ、その日のうちに息を引き取る者も数多し。小さい子どもらは「母ちゃん」と泣き叫び、地獄とは、かくなるものかと思われました(後略)。(長崎 入市被爆、男 21歳)

     ・近所の家の五人家族が朝食中だったのか、丸いちゃぶだいを囲んでいる時だったのか、遺体が輪になって転がっていたのがショックでした(後略)。(広島、直爆3キロ、女、15歳)

     ・背中に赤ちゃんをつれてとぼとぼとあるいてこられた奥さん。子どもをおろしてくれと言われ、背中をみると、ひもはお母さんの肩にくいこんだようにへばりつき、赤ちゃんは何かとんできて顔がえぐられ、もうなくなられていました。そのことを伝えたとたん、お母さんは気がくるわれたように、とめるまもなく村の方に走りさられました。何もしてあげられず、気持ちを考えると、私自身たまらない思いで、今でも忘れることのできない地獄絵を思い出し、人のこととは思えません、悲しい光景です。(広島、入市、女、16歳)

     ・灰だけになった自宅の焼けあとの中に、真っ黒なかたまりになって突き出ていたのは、胸から背中にカスガイが刺さった8歳の妹でした。13歳と6歳の弟、祖母はバラバラの骨でした。10歳の妹は行方不明のままです。本当にこんなことがあっていいのかと信じられないような町の様子、忘れることはできません。(長崎、直爆1・5キロ、女、15歳)

     

    ●消えない健康不安

     

     ・全身重度の火傷で心は暗くなり、同時に右手は伸びず引きつり、毎日70年間痛い。眠っている間が本当に極楽だ。ケロイド(火傷痕)を見る人が「キモチワルイ!!」と言ったり、思われたり。私はその度に「原爆にやられたんヨ」と説明してきた。本当につらい。(広島、直爆2キロ、男、12歳)

     ・行動を共にした戦友の訃報が届くたびに次は自分かという思いがよぎる。体の不調がおこると、原爆病が出たかと不安になる。死ぬまで不安にさらされる。子どもが病気になると、同じ不安になる。(広島、入市、男、16歳)

     ・息子を若くして白血病で亡くし、自身の被爆と因果関係があると思い、遺影には「かんべん」の言葉しかありません。(広島、救護中、男、20歳)

     ・結婚を約束していた人に「被爆者の血は家に入れたくない。両親も…僕も」と言われた時は、生きる力を失ったと思いました。(広島、胎内被爆、女)